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なぜ、マツダは「MATSUDA」じゃなくて「MAZDA」なのか。広島っ子が初めて知る!7つのマツダ教養トリビア!

2017/6/7 - カルチャー, 広島県内, 生活トミー , ウジナマニア

はい。先日のマツダオープンデー2017 に参加できてはしゃぎまくった私です。

そのマツダオープンデーにて、前の記事「【レポート】マツダ社員ですら入れない!?激レアイベント「MAZDA Open Day 2017」に潜入してきた!」には載せきれなかったのですが、各会場周遊のスタンプラリーがありました。

スタンプラリー自体もはしゃいで楽しんだ私なのですが、今回はその冊子に載っていたマツダトリビアがかなりおもしろかったので、ここに一部をご紹介します!

 

広島人の教養としても結構いいかも! なので、ぜひよんでみてくださいー!(冊子をクリックすると大きくなります)

 

※ この冊子には転載禁止などの注意事項はなく、来場者全員に配布されたものです。
「もっとマツダのことを知ってもらいたい、来場記念のスタンプラリーの思い出とともに長く残してほしい」という思いで作られたものだと思われますので、サイトに写真を掲載させていただきます。また、以下のトリビアには、冊子以外の情報(同行したマツダの元スタッフさんや現役社員さんが教えてくれたお話)も混ぜ込んでおります。

 

1.マツダ広島本社内は社内専用バスとマツダ所有の橋がある。

これは、前の記事に載せていた広島バスのこと。何台も走っていましたし、専用の車庫もありました。
ちなみに、このマツダ所有の橋(東洋大橋)は、建設当時、一企業が保有する橋としては世界最大のものだったそうです。(現在は宇部興産所有の興産大橋が世界最大だそう)

Wikiにも全景写真つきでのっています。
Wikipedia 東洋大橋

 

2.1台の車は協力会社1000社とともにできている、そのうちの4割は広島の会社である。

そりゃマツダ関係者、周りにわんさかおるわいね。ちなみにマツダ関係者って工場の稼働の関係で祝日はお休みじゃなかったりするけど、長期休暇がどかっとあるからわかりやすいよね。

↑ これは一部協力会社たちが参加していた体験型PRコーナー「モノ造りROAD」のリーフレット。

 

3.マツダと戦争と復興の話。

原爆後の復興時にマツダ工場内にNHKや県庁が一時移転していたというお話。
おそらく、爆心地から多少離れていたのもあるけど、黄金山や比治山が盾になったのが大きかったんでしょうね。

ちなみに、マツダ内には、黒く塗られた工場があるんです。

↑ バスの右後ろの黒い建物がソレ。

これ、戦時中に爆撃されにくいように黒塗りにした建物らしく、当時のまま残っているんだそうです。

おまけ : 戦時中のマツダの敷地図も残っている。陸軍が検閲した印鑑もついている。

 

4.マツダにはサッカーチームがあって、サンフレッチェ広島の前身だったらしい。

東洋工業だったころにできて、バブルのころまで50年近くあったようです。

Wikiさんったら、万能なのがすごいよね。
Wikipedia 東洋工業サッカー部

 

5.行ってよかった!工場見学&社会科見学ランキング 6位 のミュージアムが社内にある。

これは前の記事にも掲載していましたが、おもしろいし、見応えがあります。12時から12時45分は昼休憩で工場が止まったりするから、そういうところは気をつけんて時間配分せんといかんけど、止まってもおもしろいよ!

 

6.マツダは約100年前、コルクを作る会社だった。

ざっくり言うと、コルクを作っていて、バイクに興味が出てバイク作るようになって、車が気になって車を作るようになったとミュージアムにかいてありましたよ。コルク時代の名前は東洋コルク工業で、その東洋が東洋大橋とかになったらしいですよ。

 

7.なぜマツダは「MATSUDA」でなくて「MAZDA」になったのか。

創業者の松田さんの名前から第一号のトラックを「マツダ号」にした。その時英語表記はアフラ・マズダー(Ahura Mazda)という神様から名前を拝借した。ちなみに、第一号のトラックは「天使号」になる可能性もあったとか。そのままだと「TENSHI ZOOMZOOM STUDIUM」になってたね(笑)

またしてもWiki、万能説。なんでものってるね。
Wikipedia アフラ・マズダー

 

…ということで、Wiki万能になりがちな記事ですが(笑)、広島人が知っておいて損はないマツダトリビア。ぜひぜひ、まわりに広めてみてね!

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